保守派が集まった「新党」がどのように合流して分党して、また「新党」をつくったのでしょう

杉並区を改革した山田宏

政策をみると日本創新党の理念と主張はガッチガチの保守です。石原慎太郎さんの政策理念をみているとも思えるほどのガチガチの保守色が強い日本創新党の政策理念です。さすが「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書採択を主導しただけのことはあるな。とある意味納得します。ここまで保守色が強く全面的に保守のイデオロギーをだしたら、それは地方分権政策を期待していたほかの地方首長からはそれは違うんじゃないか?!という批判が出たのもうなずけます。

杉並区長として3回当選した山田宏さんは、「杉並がかわった」ととても話題になりました。杉並区独自での取り組みは高く評価されています。杉並区長に就任した時には、約9000億円の区債を抱えていて、貯金は20億円程度でしたが、区長に就任してから給与1割・賞与5割を返上して区職員1000人削減計画をつくり、平成13年から22年4月の9年間で1000人の削減を達成しました。約9000億円あっxた借金が、5分の1までに減り、貯金は11倍となる219億円になりました。この改革は見事な結果だと思います。

保守の政治家:山田宏

山田宏んは政治家を早い段階で志していたのではないでしょうか。都立国立高校の時に1976年ロッキード事件が起こります。そしてラグビー青年だった山田宏さんは事件に登場した政治家と、幕末・明治時代の政治家との違いに大きなショックを受けました。それがキッカケで政治家を志したそうです。1958年に東京都八王子に生まれ、東京都立国立高等学校から1浪して京都大学法学部へ入学しています。

経歴

昭和52年4月に東京大学法学部へ入学して、高校時代と同じくラグビーの青春時代を送り大学を卒業した昭和56年4月に今も尊敬する松下幸之助が晩年に私費を投じて設立した「松下政経塾」の第2期生として入塾します。そして熊谷弘衆議院議員の秘書を経て、昭和60年(1985年)に東京都議会議員選挙に新自由クラブ公認で出馬します。そして時、史上最年少で当選を果たしました。ちなみに、松下政経塾出身者では小野晋也に次いで2番目となる政界入りとなりました。東京都議会議員として在籍は、2期8年務めていて昭和60年(1985年)から平成5年(1993年)7月まで務めています。

新自由クラブ解散後は自由民主党に所属していましたが、松下政経塾の創設者でもあり尊敬する松下幸之助の意向を受けて、「政経塾新党」構想を具体化するために模索していました。そんな中で松下政経塾の評議員を務めていた細川護煕元熊本県知事から新党への参加を請われたため、平成5年(1993年)に自民党を離党して日本新党に入党しました。

平成5年(1993年)に行われた東京都議会議員選挙には出馬はしていません。支援したのは田中良でした。彼は後に自分の後任として杉並区長に就任した人物です。東京都議会議員選挙には出馬せずに、出馬したのは同年に行われた第40回衆議院議員総選挙です。結党から参加した日本新党の公認を受けて旧東京4区から出馬して、当選を果たしました。そしてこのとき、党立法調整委員長(国会対策委員長)に就任しました。

日本新党が翌年平成5年(1994年)に解党したため、参加したのは新進党の結党です。新進党で平成6年(1995年)に行われた党首選挙において、鳩山邦夫氏を擁立する中心的な役割を担いました。平成7年(1996年)の第41回衆議院議員総選挙の際に、小選挙区比例代表並立制導入に伴って東京8区からの出馬となりましたが、自民党候補者の石原伸晃に敗れてこのときに落選しています。そしてその後も、再び新党結成に向けての動きの中で、日本新党に参加した野田佳彦、長浜博行、中田宏たちに加えて市村浩一郎、海老根靖典、河井淳一、小田全宏、勝又恒一郎、河村たかし、中村時広たちが参加した「志士の会」を結成しましたがその後行われた第18回参議院議員通常選挙で民主党が躍進したことが影響したため、結党した「志士の会」の新党を結成する動きは頓挫します。

第41回衆議院議員総選挙に落選したことで、山田氏自身は改めて自分の原点について考え直したと語っています。落選した時には、再び国政へ戻ることしか考えていなかったときに、自分の支持者でもある年配の婦人から「国会がすべててではなく、杉並モデルをつくり全国に伝播させるのも日本を良くする道」と言われたこともあり、国政へ戻ることではなく区長への道を考えるようになりました。

杉並区区長として

平成11年(1999年)に杉並区長に初当選します。最初は区政に関心をもたなかった区政への道ですが、「国を変えるのは地方自治体でもできる」という年配婦人からの言葉を受けての杉並区長選への出馬でした。杉並区の区長となり、見事に財政を立て直しただけではなく杉並区を改革していきます。

関西社会経済研究所が行った自治体経営ランキング調査によると、杉並区は2004年度の調査で全国1位となり2006年度でも全国2位という結果を出すまでになりました。大幅な人員削減といった節約などをする一方で、特別養護老人ホームの入所待機を削減したり、杉並区区独自の救命救急体制の構築もしています。また杉並区民の足となる「すぎ丸」路線の充実なども実現したため、日経リサーチの行政サービス調査によると2006年度では全国7位という結果になりました。

平成11年(1999年)に杉並区長に初当選してから平成15年(2003年)に再選され平成19年(2007年)には3選されています。そして国政へ戻ることしかなかった落選時とは違い、国政選挙ではかつて自身の対立候補だった石原伸晃を支持しています。

杉並区長として主な政策

  • 平成14年(2002年)3月・・・レジ袋税条例。全国初となる法定外目的税を導入。5年後に買い物客に占めるレジ袋辞退率が60%の達成となれば課税の実施は見送られることになっていました。残念ながらこの目標は達成されませんでしたが、杉並区の方針転換もあってレジ袋税条例は平成20年(2008年)に廃止されいますが、それ以後も買い物でのマイバッグの啓蒙運動などが行われています。
  • 平成14年(2002年)8月・・・住民基本台帳ネットワークへの接続を拒否しました。現在は選択制に移行中です。
  • 平成15年(2003年)3月・・・区長多選自粛条例を全国で初めて制定しました。区長は3期12年を超えたら在任を自粛するよう努めることを定められました。
  • 平成16年(2004年)3月・・・全国で初となる条例で規定されたのは、防犯カメラの運用基準です。「杉並区防犯カメラの設置及び利用に関する条例」がその初の条例となりました。
  • 平成18年(2006年)4月・・・杉並区独自の教員養成塾「杉並師範館」を開設しました。
  • アニメーション産業振興への取組み。「産業経済課アニメ係」が杉並区役所に設置されていますが、自治体としてアニメを地域振興・地場産業として捉えたことは初のこととなりました。

日本創新党の結成

平成22年(2010年)4月18日に日本創新党を結成します。そして日本創新党では党首へ就任しました。新党を結成したのは当然ながら国政への進出です。国政選挙へでるため翌月5月31日に第22回参議院議員通常選挙の東京都選挙区へ出馬するために杉並区長を辞職しました。日本創新党を結成したものの、国会議員の参加はありませんでしたが、国政を目指して日本創新党として望んだ第22回参議院議員通常選挙では、自身の落選だけではなく日本創新党公認の全候補者が落選したため、選挙での得票率が2.0パーセントを下回ってしまったため、政党要件を満たすこともできませんでした。

結党から解党までに地方議員は17名が所属していましたが、離合集散が激しいこともあって平成24年(2012年)9月に日本創新党は日本維新の会へ合流することを理由に解党しました。日本創新党の解党した時の所属議員は8名でした。

日本維新の会との合流

大阪市特別顧問に平成24年(2012年)2月に就任して、4月には大阪府特別顧問に就任しました。そして参院選での議席を獲得するためにつくった「日本創新党」を9月に解党します。解答してから、日本維新の会へ参加をして、東京維新の会を設立したことに伴って相談役に就任しました。そして11月に東京維新の会代表に就任しています。

平成24年(2012年)11月に、第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会から東京19区で立候補することになりました。杉並区長として活躍した杉並区ではなく、かつて中学高校時代を過ごした東京19区での出馬となったことに対して、ブログで「長年お世話になりました杉並区で(出馬)と希望しておりましたが、党本部からの要請で東京第19区となり、特に杉並区民の皆様には本当に申し訳なく思っております。」とブログを通じて述べています。選挙結果は、小選挙区では落選しましたが、比例東京ブロックで復活当選して、現在は衆議院予算委員会理事を務めています。そして平成25年(2013年)5月23日に、日本維新の会を除名された西村眞悟の後任として海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員長に就任しています。