保守派が集まった「新党」がどのように合流して分党して、また「新党」をつくったのでしょう

横浜市の元市長中田宏

杉並区の区長として名を上げた山田宏と道を同じにした、元横浜市長の中田宏も横浜市長として当選した時はかなり横浜市民は驚きました。4期目を目指した高秀秀信は自民党・公明党・民主党神奈川県連・社民党・保守党・連合の推薦を受けて12年務めていただけに、新人の中田宏では無理だろうというのが大方の予想でした。大学在学中にすでに政治家を志したとも思えるのが、青山学院大学在学中に自由民主党の鈴木恒夫陣営でボランティアをしていたからです。そして4期目を目指した高秀秀信が横浜市長選に初めて出馬したときには、高秀陣営のボランティアをしていました。

中田宏

昭和64年(1964年)9月20日に現在青葉区の当時港北区で生まれ、神奈川県立霧が丘高等学校を卒業してから2年間の浪人生活を経て、青山学院大学経済学部へ入学しています。大学時代にすでに高秀家に出入りしていました。大学を平成元年(1989年)に卒業後は松下政経塾へ第10期生として学びましたが、この松下政経塾時代にゴミ問題に取り組んだことを受けて、地方自治体や商工会議所から講演を依頼されるようへとなりました。

政治家としての経歴

最初は秘書としてスタートを切ります。平成4年(1992年)に結党した「日本新党」に結党から参加していますが、このときに細川護煕や、小池百合子の秘書として務めた後に遂に選挙へ出馬します。平成5年(1993年)に行われた第40回衆議院議員総選挙です。

この選挙で旧神奈川1区から日本新党公認で出馬しましたが、ここでトップ当選を果たしました。そして日本新党が翌年の1994年に解党したことで、新進党の結党に参加します。そして平成8年(1996年)に小選挙区比例代表並立制導入後に、初めて実施された第41回衆議院議員総選挙で神奈川8区から新進党公認で出馬して、再選となりました。新進党が解党後は無所属の会に入党しています。

平成12年(2000年)に行われた「神の国解散」と呼ばれた第42回衆議院議員総選挙では、民主党の支援を受けて神奈川8区から出馬となりました。そしてそこで自民党が擁立した、首相・橋本龍太郎の首席秘書官を務めた新人の江田憲司を破って、3選を果たしました。平成13年(2001年)に当時の首相だった森喜朗の辞任を受けて行われた首班指名選挙の際、中田が所属する会派「民主党・無所属クラブ」の所属でいながら投票したのは、民主党代表の鳩山由紀夫ではなく同じ神奈川県の選出で自由民主党総裁の小泉純一郎に投票しました。

この小泉純一郎に投票した行動が、民主党幹事長だったイラカンこと菅直人の逆鱗に触れたため、民主党・無所属クラブの会派から除名されることになりました。そのため除名以降、平成14年(2002年)に衆議院議員を辞職するまで無所属での活動となりました。

市長選へ出馬

無所属で衆議院議員として活動していましたが、平成14年(2002年)に衆議院議員を辞職します。目的は横浜市長選への出馬です。そして無所属で横浜市長選挙への出馬を表明しました。出馬表明した当初は、すでに旧皇族の竹田家で生まれ明治天皇の女系玄孫にあたる竹田恒泰立が立候補の出馬表明をしていましたが、中田宏が横浜市長選へ出馬表明してから、竹田恒泰は自分の立候補を撤回して中田の支援に回りました。横浜市長選挙で、大学時代に陣営を手伝ったこともある師とも言える現職の高秀秀信は4選を目指し、自民・公明・保守・民主4党相乗りで出馬したこともあって下馬評では、現職高秀有利という下馬評を覆しての初当選となりました。

横浜市長として

1期目では、ゴミの分別回収の徹底や横浜市立大学の機構改革そして、横浜市職員の削減や保育所の民営化に代表される行政改革を、市民からの賛否両論を受けながらも実行していきました。公私混同ともとれることは市長専用車です。地元企業の日産車を横浜市では幹部職員の公用車として従来採用していましたが、市長に就任後に英国車のジャガーに変えました。ジャガーに変えたのは少しの間で止めたようですが、横浜経済の拡大を言いつつ、外国企業の車を採用するのはいかがなものか。と思われたに違いありません。

平成18年(2006年)の横浜市長選挙の時には、得票率70パーセントで再選となりました。その後もファイナンス手法の活用、緑地保全を名目とした増税の「新緑税」を導入したり、市バスの路線を削減することで財政健全化を進めていき、平成20年(2008年)度に横浜市は1961年度以来実に47年ぶりとなる普通交付税の不交付団体になりました。

2期目の任期途中の平成21年(2009年)7月28日に突然辞職を表明します。この突然の辞職の理由について、第45回衆議院議員総選挙と同日に横浜市長選挙を行うことで、選挙コストの削減に繋がることといったことなどを挙げてはいますが、このときに明確な説明や謝罪もありませんでした。女性スキャンダルなども報じられいた中だったこともあって「投げ出しだ」といった批判が相次ぐことになりました。そして神奈川県知事の松沢成文も中田を批判しました。そのため、中田が推進した「開国博Y150」の失敗究明のために参考人として中田を招致することにも、松沢知事は賛意を示しています。ところがこの参考人招致は、中田が多忙を理由に拒否したこともあって見送られています。結局この「開国博Y150」が失敗したことについて、中田自身は責任を明確にしていないというのもこれまた事実です。

地方自治法第145条の規定に基づいて、辞職の届け出から20日を経過した平成21年(2009年)8月17日午前零時で、中田宏は横浜市長を退任しました。そして約2ヵ月後の10月に、山田宏などの地方自治体の首長と首長経験者らが結成した政治団体「よい国つくろう!日本志民会議」の結成に参加して、この団体の政治委員会幹事長に就任しました。

中田宏の人物像

  • 選択的夫婦別姓制度の導入に賛成している。
  • TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加へ賛成。そしてTPPに参加することで関税の全面的な撤廃を主張。
  • 今後の国際情勢いかんによっては核武装に対しても検討に賛成する考えを持つ。
  • 高校と大学時代に所属していたのは空手部。今もフィットネスジムでトレーニングは欠かさない。

大失敗の開国博Y150

有料入場者数を500万人と想定していたものの、実際の有料入場者数は123万9,325人となり平成21年(2009年)4月28日から9月27日まで開催していた横浜港開港150周年を記念した「開国博Y150」は約25億円の赤字となり、最終的な赤字は約28億円です。「開国博Y150」が閉幕した後は横浜開港150周年協会と、イベントの企画運営を委託した企業、そして入場券販売の契約を結んだ企業とのあいだで相互に提訴になりました。

企業の間に相互提訴になったこともあり、平成22年(2010年)11月に財団法人横浜開港150周年協会と博報堂JVが調停に入りました。博報堂JVに対する協会の債務残高約34億8000万円のうち、協会の資金となる約11億4100万円と市の補助金約12億6000万円を博報堂JVに支払って、残額の10億3100万円は債権放棄することが発表されて、その後市議会で補助金相当額の市税を投入する補正予算が可決されました。2013年までにTSP太陽・アサツー ディ・ケイとも調停が成立したため、財団法人横浜開港150周年協会は平成25年(2013年)8月31日で解散しています。